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いろいろ調べたら興味深いことがたくさん!
江戸中期(1751~1764)に大阪天満宮の前でガラスの製造を始めた
長崎の商人・播磨屋清兵衛(はりまや-せいべえ)が大阪の天満宮前に工房をひらいた。
播磨屋清兵衛は、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を学び、大阪に持ち込みました。
1819年には渡辺朝吉という人物が川崎村にガラス工場を作りました。
同じ頃、ガラスの製造法が江戸に伝わったといわれていて
ガラス製造の開始は、江戸よりも大阪の方が早かったことになるようです。
『江戸切子:その流れを支えた人と技』という本には「大阪のカットグラス」という1章が設けられており、
大阪のガラス産業の歴史の一端が詳しく記されています。
それによると、1875(明治8)年に伊藤契信が川崎村天満山(現在の北区与力町)に
ガラス工場を作り、
1882(明治15)年には大阪最初の洋式ガラス工場を新設して、同地に日本硝子会社を設立。
1888(明治21)年には、日本硝子会社を退職した島田孫市が同じ天満地区に
島田硝子製造所を興します。
この島田孫市は、大阪における洋式切子の端緒を開いた職人の一人であり、
大阪の近代ガラスを象徴する人物だったといいます。
またこの地に 象印の本社があるのも魔法瓶もガラスからできていて
創業者はこのあたりの電球職人だったそうです。
日本最大のガラス商社のカメイガラス。
学者肌だった社長が薩摩切子のよさを忠実に復刻して、商品化を実現ました。
その後、カメイガラスは倒産しちゃったけれども、カメイガラスがなかったら
薩摩切子は今みたいに有名にはなっていなかっただろうし、その流れから、
現在では天満切子も生まれています。
きょうはロサンゼルス特集(^-^)。行ったことないけど(^^;。
なぜか ほとんど車窓がトンネルの中。
やっと出た!と思ったらすでに 代々木付近だった。すごいーー!
2015年3月7日 日本最長トンネル開通! 新宿〜羽田空港、首都高速で40分から20分に短縮らしい
誰? (・_・?)
そもそも 八千代銀行は東京都新宿 区に本店を置く第二地方銀行
キャラクターは ポチャッコ&ポチャミというらしい
東京都渋谷区富ヶ谷1-6-12
すごくパンのいい香りがする
ひっきりなしにパンが焼きあがる
パンのお皿(木)はロサンゼルスの家具屋さんで購入したそうだ
パン屋さんに和食 炊き込みおにぎり
大正8(1919)年に建設された近代 和風建築として価値が高く、
在来建築技術と西洋から伝来した新しい技術力、そして 大正期までに高まった工業技術力を
優れた意匠として十分に発揮して造られた建物
「豊島園」の創設者である実業家・藤田好三郎氏によってつくられた近代 和風のお屋敷
大正12年(1923)安田財閥の創始者安田善次郎の娘婿・善四郎が購入し、
昭和12年(1937)に 長男楠雄が相続
早速 結霜ガラスを見せてもらう
この結霜ガラスは独特で なぜかいも虫っぽい模様が
何をしたらこんな模様になるのだろう・・・
雁行の家
国民的財産である美しい自然景観や貴重な文化財・歴史的環境を保全し、
利活用しながら後世に継承していくことを目的に設立した
公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈された
茶の間
ミシン
台所
昭和初期のシステムキッチン アイランド式
水屋にも 結霜ガラスを発見
ワンクリックで写真を大きくするとわかるが
入口にあるのは 洗髪台だったのではないか。。とのこと
型をとるのに当時は寒天でとっていたそうだ
歯型もそうらしい
昔はあるもので なんらかの工夫をしていたんだなぁ
照明
左(上)は当時のもの
右(下)はレプリカ
2011年3.11 地震でレプリカは落ちて割れたそうだ
クワクボリョウタ 桑久保 亮太 Ryota Kuwakubo 作品『ロスト #13』
_ まろにー [この旧安田邸に以前行ったことがあるわ。硝子の記憶より、台所の調度品とその上部の天窓が記憶鮮明。]
_ たけ [お母さんといったんやね? 懐かしいナンバーがラテンで蘇る^^v アミーゴ!!]
_ (@^-^@) [たけちゃん、そうやねん 名古屋に住んでる叔母と、いとこも一緒で4人で行ってんよ(笑) 今回は曲紹介ありのライブやっ..]